児童社会

愚民社会
人が気持よく暮らしていくためにはどんなサイズのコミュニティを用意するのが相応しいか、という話を最近よく聞く。その答えとして「藩」を復活させようという意見も出たりしているみたいだが、僕には体感的にどうもよく分からない。それに問題はそのもっと下にあるような気がしている。自然環境はめちゃくちゃに変えられてしまったし、人の数も移動力も昔とは違うのだ。今更「藩」と「村」でやっていこうとしても昔のようには機能しないと思う。
そこで代案として僕が考えたのは、「小学校区」という単位だ。全国にまんべんなく散らばっており、歩いて隅から隅まで行けるサイズで、そして何より子供中心であるというところがイマドキのコミュニティに向いているのではないかと思う。
この小学校区コミュニティ化計画では、核となる小学校の校長がコミュニティの長も兼ねるのが良いだろう。子供を一望することのできる人が長である、という点が重要だ。もちろん小学校長は民主主義の原則に従って、その小学校区に住む有権者の投票によって選べるようにする。ここで決して「親」だけ優遇されるようなことがあってはならない。このサイズのコミュニティだからこそ「子供はみんなの子供である」という「共育」的な考え方ができるのだ。そちらの方向に行ってみるべきだと思う。そもそも日本では子供が親の所有物であるという感覚が強すぎる。だから親子(特に母子)心中が盛んだし、児童相談所は子供を助けられないままに終わってしまう。
親と子の連動率を下げることには他にもたくさんの利点がある。例えば親同士の対立が子供同士の対立を呼んだりといったことが起こりにくくなるだろう。一族まとめて村八分というような村社会の悪い部分をのさばらせてはいけない。それに最近の研究(苅谷剛彦『学力と階層』など)によって、今の日本では親の属する社会階層と子供の学力(正確には「学ぶ意欲」)が連動しすぎていることも分かっている。現政権は家族重視の方向らしいけど、少なくとも教育に関しては子供は親から引き離されたほうが良さそうだ。この「親が育てる」から「地域が育てる」へのシフトを比較的簡単に実現できそうだというのが、小学校区コミュニティ化計画の最大の長所と言えるかもしれない。
さらに教育だけでなく、有意義な「労働」もやりやすいのではないかと思う。児童労働それ自体については、僕自身は賛成でも反対でもない。それが大人による搾取に繋がるのなら絶対にやめるべきだし、社会の一員として働くことを学ぶ、ということならむしろ小学生ぐらいからどんどんやったほうがいいと思う。もちろん学業に支障が出るのならそれは問題なわけだが、ここで「小学校長がコミュニティの長でもある」という条件が効いてくる。例えば学校に来られなくなったり、学校で寝なければいけない子供が出たとしても、すぐに察知して対策に動くことができるだろう。今は子供を救うための手続き的な回り道が長すぎる。ショートカットが必要だ。
今の世の中、天皇制に国旗国歌で人心を一体化させようというような考えも至る所で見かけるわけだが、なぜそんなことが解決に繋がるのかよく分からない。いや、それで生きる活力が得られるような人は個人的にやればいいのだとは思う。しかし全員でやるべきというのなら、それは日本に根強く残る親子心中文化の拡大バージョンでしかない。錦の御旗を振りかざさなければ小学校区という小さなコミュニティの運営すらできないなんて、良い国民国家の姿とはとても思えない。それは明らかに一人ひとりの弱体化を目指す道だ。
最後にひとつ。小学校区コミュニティを市民で運営することによって、民主主義の足腰が鍛え直されるという副作用が生まれることを僕は期待する。もし身勝手に政局を振り回すようなことをこの小さなコミュニティの中でやってしまえば、影響はすぐに子供の振る舞いとなって現れるだろう。でもそれは実際に、もっと長い時間をかけて現実の社会でも起こっていることなのだ。フィードバックを今よりずっと早く得られるようになれば社会の舵取りもそうとう楽になるだろう。より良い方向に向かい易くなるだけでなく、「どちらが良い方向か」という判断(これこそ現代社会の最も難しい部分)にも役立つはずだ。そして、そういう環境から健全な民主主義は立ち上がってくるのだと思う。