Wikipedia の6次の隔たり

Wikipedia はリンクを6回たどればどの記事にでも行ける、という話を今さら聞いて、自分で試して遊んでみた。「おまかせ表示」という機能でランダムに記事を2つ開き、ひとつ目のページからリンクを辿ってふたつ目のページに行く。


(1)「トゥスコラーナ街道」→「西村貴世」

トゥスコラーナ街道
ローマ
映画
アニメーション映画
雲のむこう、約束の場所
秒速5センチメートル
西村貴世


(2)「グレーヴリー (ミサイル駆逐艦)」→「ゾルターン・ペシュコー」

グレーヴリー (ミサイル駆逐艦)
ミシシッピ州
ウィリアム・グラント・スティル
指揮者
クラシック音楽の指揮者一覧
ゾルターン・ペシュコー


(3)「ドイツ駐留ソ連軍」→「望夫石」

ドイツ駐留ソ連
ソ連
中国
香港
望夫石


まず大きな記事に上がって、そこから降りていくというのが基本パターンなのだろう。解き方の手順としては、スタートとゴールの両方から3ステップほど上がって合流地点を探す感じ。


【追記】


(4)「アメリカン・サイコ」→「ソール (ローマ神話)」

アメリカン・サイコ
サマンサ・マシス
暗視装置
可視光線
太陽
太陽神
ソール (ローマ神話)


(5)「菩提僊那」→「八郎潟

菩提僊那
行基
狭山池 (大阪府)
美しい日本の歩きたくなるみち500選
十和田湖
三湖伝説
八郎潟


(6)「日本クラブユースサッカー連盟」→「大田川 (山口県)」

日本クラブユースサッカー連盟
日本プロサッカーリーグ
ザスパクサツ群馬
ユニクロ
宇部市
厚東川
大田川 (山口県)

夕日を実行している2つの男性

日没でジンバラン ビーチで実行されている 2 つの男性 の写真素材・画像素材 Image 8476361.
写真のタイトルに噴いた。「夕日を実行している2つの男性」って。
このサイト、たぶん機械翻訳を使っているのだろう。他にも「人間のビーチで夕日を実行しています」、「一杯自宅の少女」、「少女カップとお菓子、絶縁に」、「英語の女の子のスタイルで、ドリンク茶の服を着て」などの非常にエキサイトしてる文章が見られた。


【追記】
Buffalo buffalo Buffalo buffalo buffalo buffalo Buffalo buffalo - Wikipedia

レストランの対応とクレーム

娘に対するレストランの対応に夫が怒っています : 生活・身近な話題 : 発言小町 : 読売新聞
レストラン勤務の夫が失業しそうです : キャリア・職場 : 発言小町 : 読売新聞
クレームを付けた側と付けられた側、両サイドの視点が見られる興味深い例。
当事者同士で話し合ったらどうかと思うのは、僕が部外者だからだろうか。

郷土なんてなかった

日本教育再生機構のサイトにあった各界有識者の提言を読んでいたら、そのあまりの偏向っぷりに頭が痛くなってきた。
愛国心とか天皇制とかについて、僕の意見は前にも書いた。とても単純な話だ。他人の大切にしているものは僕も大切にしたいと思う。でも好きになることを強制されると嫌いにならざるを得ないから、どうか静かにしていてほしい。
しかし郷土愛というのはちょっと扱いが難しい。僕にはそもそも郷土愛という感情がよく分からない。郷愁ということなら、僕自身が地元で懐かしいと感じる部分は、子供同士で遊んだ公園と、あとは図書館ぐらいなものだ。公園と図書館を守るためならたぶん寄付でも署名集めでもできると思うけど、それは郷土愛の一種なんだろうか。
政治家はたぶん郷土愛に満ち満ちているのだろう。何しろ地元こそ票田なのだから。しかし自宅前のアスファルトに固められた道路を車がびゅんびゅん走っていくのを眺めながら、ここが俺の郷土か……、などと感慨に耽ることのできる人はなかなかいないのではないかと思う。というか今のセリフはむしろ嘆きだと言われたほうが納得がいく。自分を騙さずに自然な感情として郷土愛を持つことができるのは、たまたま実り豊かな自然や心優しい人々に囲まれて育った人だけなんじゃないだろうか。そしてそういう実り豊かな自然や心優しい人々というのは、地元民だけでなく、この世界の誰にとっても魅力的な、愛すべき存在なんじゃないだろうか。

雲の持ち主

人工降雨Wikipedia
雲を刺激して、好きなタイミングで雨を降らせること。
近い将来、世界的な水不足に陥るだろうと国連が予測していて(『ヨルムンガンド』でもそういう話があったな)、そうなったときに使えるかもということで文科省が研究を立ち上げたりもしていたみたいだけど、今はどうなってるんだろうか。
もし本当に雲を水資源として利用するようになったら、絶対に雲の取り合いで国際紛争が起こるんだろうな、と思う。所有者天国と言える現代日本において、誰の所有物でもないものはもはや野生生物とゴミと雲ぐらいなものだけど、その雲に関してもそのうち国が俺のもんだから勝手に触れるなと言い出すのかもしれない。アメリカにはすでに「気象調整」を請け負う会社があるらしくて、さすがアメリカという感じ。勝手に月の土地を売ったりするだけある。
ひとつの国の中でも、どの地域に雨を降らすかで内紛が起きたりするだろう。そんなことにならないよう、例えば海水を飲水に変える方法とかのほうが優先順位は高いんじゃないかという気がするけど、それも海のない国には意味がないか。日本の場合、大気の流れるルートからして中国の影響が大きいはず。あちらの環境問題が飲水にダイレクトに効いてくるというのは何とも嬉しくない話だ。

児童社会

愚民社会
人が気持よく暮らしていくためにはどんなサイズのコミュニティを用意するのが相応しいか、という話を最近よく聞く。その答えとして「藩」を復活させようという意見も出たりしているみたいだが、僕には体感的にどうもよく分からない。それに問題はそのもっと下にあるような気がしている。自然環境はめちゃくちゃに変えられてしまったし、人の数も移動力も昔とは違うのだ。今更「藩」と「村」でやっていこうとしても昔のようには機能しないと思う。
そこで代案として僕が考えたのは、「小学校区」という単位だ。全国にまんべんなく散らばっており、歩いて隅から隅まで行けるサイズで、そして何より子供中心であるというところがイマドキのコミュニティに向いているのではないかと思う。
この小学校区コミュニティ化計画では、核となる小学校の校長がコミュニティの長も兼ねるのが良いだろう。子供を一望することのできる人が長である、という点が重要だ。もちろん小学校長は民主主義の原則に従って、その小学校区に住む有権者の投票によって選べるようにする。ここで決して「親」だけ優遇されるようなことがあってはならない。このサイズのコミュニティだからこそ「子供はみんなの子供である」という「共育」的な考え方ができるのだ。そちらの方向に行ってみるべきだと思う。そもそも日本では子供が親の所有物であるという感覚が強すぎる。だから親子(特に母子)心中が盛んだし、児童相談所は子供を助けられないままに終わってしまう。
親と子の連動率を下げることには他にもたくさんの利点がある。例えば親同士の対立が子供同士の対立を呼んだりといったことが起こりにくくなるだろう。一族まとめて村八分というような村社会の悪い部分をのさばらせてはいけない。それに最近の研究(苅谷剛彦『学力と階層』など)によって、今の日本では親の属する社会階層と子供の学力(正確には「学ぶ意欲」)が連動しすぎていることも分かっている。現政権は家族重視の方向らしいけど、少なくとも教育に関しては子供は親から引き離されたほうが良さそうだ。この「親が育てる」から「地域が育てる」へのシフトを比較的簡単に実現できそうだというのが、小学校区コミュニティ化計画の最大の長所と言えるかもしれない。
さらに教育だけでなく、有意義な「労働」もやりやすいのではないかと思う。児童労働それ自体については、僕自身は賛成でも反対でもない。それが大人による搾取に繋がるのなら絶対にやめるべきだし、社会の一員として働くことを学ぶ、ということならむしろ小学生ぐらいからどんどんやったほうがいいと思う。もちろん学業に支障が出るのならそれは問題なわけだが、ここで「小学校長がコミュニティの長でもある」という条件が効いてくる。例えば学校に来られなくなったり、学校で寝なければいけない子供が出たとしても、すぐに察知して対策に動くことができるだろう。今は子供を救うための手続き的な回り道が長すぎる。ショートカットが必要だ。
今の世の中、天皇制に国旗国歌で人心を一体化させようというような考えも至る所で見かけるわけだが、なぜそんなことが解決に繋がるのかよく分からない。いや、それで生きる活力が得られるような人は個人的にやればいいのだとは思う。しかし全員でやるべきというのなら、それは日本に根強く残る親子心中文化の拡大バージョンでしかない。錦の御旗を振りかざさなければ小学校区という小さなコミュニティの運営すらできないなんて、良い国民国家の姿とはとても思えない。それは明らかに一人ひとりの弱体化を目指す道だ。
最後にひとつ。小学校区コミュニティを市民で運営することによって、民主主義の足腰が鍛え直されるという副作用が生まれることを僕は期待する。もし身勝手に政局を振り回すようなことをこの小さなコミュニティの中でやってしまえば、影響はすぐに子供の振る舞いとなって現れるだろう。でもそれは実際に、もっと長い時間をかけて現実の社会でも起こっていることなのだ。フィードバックを今よりずっと早く得られるようになれば社会の舵取りもそうとう楽になるだろう。より良い方向に向かい易くなるだけでなく、「どちらが良い方向か」という判断(これこそ現代社会の最も難しい部分)にも役立つはずだ。そして、そういう環境から健全な民主主義は立ち上がってくるのだと思う。

既存メディアがネットメディアになるとき

愚民社会
既存メディアが既存メディアの批判をすることは滅多にない一方で、ネットメディアでは既存メディアに対する批判が目立つ。この事実をもってネットメディアの優秀性が語られることも多い(自画自賛を含め)。もちろんそんな論法が使えるのは、既存メディアが巨悪であるというフィルターを通してのことだが。
ネットメディアもネットメディア自身に対する批判をすることは稀なようだから、自分を棚に上げている感は否めない。今はこちら側とあちら側という対立構造ができているからいいものの、それは過渡期における特権のようなもので、今後、既存メディアのネットメディア化が十分に進行してしまえば、現状の批判精神(に見えるもの)は再び下火となることだろう。
ネットメディアの世界では既存メディアのような大規模利権に囚われた組織は生まれない、と考えるのは楽観的すぎる。資本や労働力がなければできない取材調査というものも世の中には確実にあるのだし、何より人間は長いものに巻かれたがるものなのだ。「ここだけ見ていればいい」と思っていたいという大衆の需要に応じて、ある種の寄らば大樹的メディアは絶対に台頭してくるだろうと思う。これは日本国内に限った話ではない。
僕の予想を言うと、そういう巨大メディアは日本でもアメリカでもなく、中国から出てくるのではないかと思っている。反日・愛国路線を徹底させてきた江沢民院政もようやく終わりそうだし、蓋が取れたあとの爆発力は凄まじいものになるだろう。「悪に強いは善にも強い」という言葉がある。情報統制に強いということは、情報収集にも情報発信にも強いということだ。そもそも中国のことを知りたくて欲求不満になっている人は内にも外にもたくさんいるわけだから需要に問題はないし、情報統制をやっていた人々がお役御免になればおそらくマスメディアに再就職するだろうから人員も確保できる。その結果、労働集約型のメイド・イン・チャイナなメディアがグーグルのごとく超新星的に出現してくるのではないか。そして経団連あたりが北京官話を義務教育に入れろと喚き出すのではないかと思う。
言語教育に関しては、僕は前々から、英語とか中国語とかにこだわらず「言語」という科目を作るべきだと考えている。日本の国語教育はあまりにも文学に偏りすぎているせいで、「空気」の認識と操作に特化してしまっているからだ。国語という教科において、読解とは空気を読むことだし、作文とは空気を作ることだ。たまに公共性を意識して新聞記事やディベートの真似事をやってみたりするも、結局はエクリチュール(自分の所属を示す効果のある語り口。言語における衣服のようなもの)の習得に留まり、空気を醸成するための別の技法を学んだだけで終わってしまう。僕がネットメディアの将来を案じるのも、現時点ではネットメディアによる既存メディアへの批判がほとんどエクリチュールの域を出ていないからだ。ネットメディアが既存メディアの良いところを褒め、ネットメディア自身の悪いところを指摘できないのなら、それは単に既存メディアとは別の空気を醸成しているだけであって、決して新しい境地でも何でもない。
人はしばしばエクリチュールによって仲間・同志であることを確認する。だからだろう、エクリチュールの使用は快感と結びついている。確かにネットメディアの勃興期には、エクリチュールを拠り所にして集うことが必要だったのかもしれないが、その連帯感に耽溺していては既存メディアの二の舞(せいぜい規模が違う程度)で終わるに違いない。この耽溺っぷりは大きな問題だ。なぜならネットメディアが本当に既存メディアと差別化したいのなら、「動員」に頼ってはいられないはずだからだ。もしネットメディアがオタクやプチ右翼のような「動員されやすい人々」にアクセスできることを有利な点だと思っているのなら、かなりまずいというか、はっきり言って未来はないと思う。「動員」に関して既存メディアに敵うと思ってはいけない。たまに起こる「祭り」によってネットの住人は自分たちの力を過信してしまいがちなのかもしれないが、そんな考えではネット上に移行してきたタフな既存メディアにしてやられるだけだろう。
もし勝機があるとすれば、それはエクリチュールに耽溺しにくいタイプの個人をなんとかネットの海から探し出し、味方につけておくことなのではないか。こういう人々は同時に「動員されにくい」という性質を持っているだろうから、既存メディアも手が出しづらいはずだ。メディアの差別化およびその後の勝敗は、この動員されにくい人々(別の言い方では「近代的個人」)をいかに味方につけるかにかかっていると思う。