『池上彰の宗教がわかれば世界が見える』
- 作者: 池上彰
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2011/07/20
- メディア: 単行本
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宗教に詳しい人たちにバラバラに話を聞くだけなので全体としては雑多な印象。でも Wikipedia とかで調べるよりは現状に合った知識がまとめて手に入る。ついでに言えば、宗教の教義の話だけでなく、葬式や墓についての話もずいぶんたくさん書かれている。現代に生きる者として一度くらいは通読しておくと良い本だと思った。
日本人の多くは自分を無宗教であると考えている。しかし「無」とはどういう意味かと訊かれて咄嗟に答えられる人はいるだろうか。単にどこの宗教団体にも属していないという意味だろうか。この問題について本書で養老さんの言っていたことがとても面白かった。彼によれば、日本人にとって無宗教の「無」とは、仏教の「無」のことなのだそうだ。諸行無常の「無」でもあり、言い換えるなら「空」でもある。
例えばイスラム圏で無宗教を名乗れば、それは反宗教の宣言であり、彼らの神に敵対する者となる。しかし日本における無宗教は普通、反宗教ではない。それは主義主張というよりは、まあいろんなのがあっていいんじゃない、騒ぎを起こさなければ好きにしてくれていいんじゃない、というような大らかさの表現だ。いろいろな宗教があることは知っているけれど、どれもいまいち真実を突いていないように思えてしまう。それが日本人の宗教観なのだ。それならいったい何が真実なんだろうか。実は日本人はだいたい多かれ少なかれ仏教徒であり、仏教で言うところの「無」こそが真実だと、無意識のうちに考えているのではないか。
僕は一時期、禅に熱を上げていたことがある(そして今も好きで関連本を読む)のだけれど、それは禅の世界にあまねく漂う「無」の概念が自分の心にとてもしっくりくるように思えたからだった。つまり新しいものを求めていたというよりは、自分の中にもともとあったものをもっと追求したくなったという感じだ。じゃあどうして「無」がすでに自分の中にあったのか。きっと養老氏の言うように、日本で生きているといつの間にか自然に刷り込まれてしまうのだと思う。それほどまでに日本には「無」が行き渡っている。無気力、無関心、そこに連なるものとしての無宗教と言えるかもしれない。
それでいいじゃないか、と僕は思う。最近いろんな大人が(主に壮年の人が)日本に元気がないと言っているけれど、ここにある数々の「無」は、本当はもっと大切なものなんじゃないだろうか。単に経済にとって都合が悪いというだけで悪そのもののように言うのは何かがおかしい。むしろ「無」を悪と見なす雰囲気が形作られているせいで、「無」に親和性の高い人々が追い詰められる事態に陥っているのではないだろうか。
本書は雑多な印象だと最初に述べたが、よく考えるとそこに共通したものが見えてくる。それは無宗教を名乗りながら聖性にはわりと敏感でそれなりに気を使う、のらりくらりと上手くやっている日本人の姿だ。池上さんを始めとして多くの人がこの性質に目を留め、それとなく期待を寄せている。聖性を感じ取る能力は持ちながら、一方で「無」に対する親和性が高い。これが日本人の独特の宗教観を形作っているのかもしれない。