正しいけれど、間違っている

参考:東大話法Wikipedia
「東大話法」というものの意味がいまいち分からなくて、ちょっと立ち止まって考えてみた。「欺瞞的で傍観者的」と表現されるこの話法は、東大の教授にありがちな喋り方なのだという。
僕が自分なりに理解したところでは、「言ってることは正しいけど目の付けどころが間違っている」ということのようだけど、どうだろう。言い換えるなら、「いま重要なのはそこじゃないでしょ」と当事者を嘆かせるような意見を言うこと。当事者にとって重要でない部分を突くことで無駄に「論破」だけはできる。だから欺瞞的かつ傍観者的。そして非生産的。
もちろん、「言ってることは正しいけど目の付けどころが間違っている」人というのは東大に限った話ではないだろう。学者の生態としては当然なのかもしれない。というか、かつて優等生だった人ほどそうなるのかもしれない。なぜなら学校で行われる訓練のほとんどは「正しいことを言う」ことであって、決して「正しいところに注目する」ことではないのだから。
「東大話法」を打ち破るにはどうすればいいか。それは結局のところ、「我々はあなたの敵ではない」ということをはっきり述べておくことなのではないかと思う。確証はないけど、「東大話法」の使用者というのは要するに、自分が「負け」と判定されることに怯えているんじゃないだろうか。もし「話し合うことで我々は何を目指すのか」という目的意識さえブレなければ、議論は単なる勝ち負けの問題を超え、むしろ共闘に近いものとなるだろう。その世界では「東大話法」は意味をなさない。なぜならそこには「負け」という概念がないのだから。